# 水面の月
「行くべきではなかったのかもしれない」
俺は天井を見上げながら呟いた。
横に女が寝ていたが、別に彼女に向かって言ったわけではない。
天井に3つの染みがあり、それに気付いた俺を、どういうわけか、微かな後悔の渦が取り巻いた。
「そんなことないわ。でも、私を連れていったのは不味かったわね」
横にいた女が答える。
「まだ寝ていなかったのか?」
「うん。眠れないの」
そう言いながらも女は大きく欠伸をした。
「いま、なんじ?」
俺はそっぽを向いていた時計を直した。
「2時」
「明日も朝が早いのよ。仕事に遅れたらどうするの」
「おいおい、俺のせいか?」
「そうでもしないとやってられない」
そう言って女は身を起こした。
「のどが渇いた。何かちょうだい」
「自分で作れよ」
「お願い」
「わかったよ・・・」
俺はベッドから抜け出し、キッチンへと向かった。
やかんを火にかけ、きゅうすを用意する。
コンロの火は今日の葬式を思い出させた。
別れた妻が交通事故で死んだのだ。
不思議と涙は出なかった。
俺が連れていった女はぼろぼろ涙を流していたというのに。
「どうしてお前が泣くんだ?」
俺が訊くと、
「だって悲しいじゃない」
と彼女は鼻をすすった。
帰りの車で、彼女は泣き疲れたのか、子供のように眠っていた。
「だから眠れないんだよ」
俺は誰に言うともなく、一人悪態を付いた。
俺が湯飲みを持ってくるのを見て彼女は呆れたような顔をした。
「もしかして、お茶?」
「そうだ。お前がいらないなら俺が飲む」
「嫌。飲む」
彼女はそう言って湯飲みを受け取った。
そしてそっと口に運ぶ。
途端に顔をしかめると、口を尖らせて息を吹きかけた。
俺はそんな彼女の様子を見て、笑いがこみ上げてくるのを我慢できなかった。
「なにがおかしいのよ」
彼女はしかめっ面で抗議した。
「だって、お前・・・」
「だいたいねぇ、お茶はないわよ。コーヒーとか、紅茶とか、もっとカッコつけなさいよ。
あなたはただでさえダサイんだから。つき合ってる私の身にもなって。友達に自慢できやしない」
言い終わると、お茶をズズッと口に含む。
「あいにく格好つける必要はないんでね」
「どうして?」
「お前がいるだろ?」
暗がりの中でも彼女が赤面する光景が手に取るように分かる。
この女は、元気だけはやたらあるくせに、この類の会話に弱いのだ。
「私と別れたらどうするのよ」
彼女は、か細く反論した。
「コーヒーでも沸かすさ」
彼女は何も応えなかった。
沈黙の時のなかで、彼女のお茶をすする音だけがした。
彼女はお茶を飲み干すと湯飲みを俺に差し出した。
「お茶、湿気てたよ」
「悪かったな」
俺はキッチンに湯飲みを運んだ。
俺は湯飲みを軽く注ぐために蛇口をひねった。
炊事場に流れる水は俺の後悔の念をきれいに洗い流し、そして溢れ出す。
水は俺を満たし、いつしか俺は水の中にいる。
水面には月が映っていた。
とても儚げで、
とても悲しげで、
俺はたまらず手を伸ばした。
形が崩れないよう、そっと、そっと・・・。
微かな波紋が俺の内に広がり、俺の心を優しく揺さぶる。
ふと窓の外を見ると、まるで水中から見上げたかのように、月が揺らめいていた。
俺が戻ると、彼女は横になっていた。
「なぁ・・・」
「ちょっと話しかけないで。今眠れそうなの」
俺は別にすることもなく、ベッドに座り、彼女が眠りにつくのを待った。
単に恥じらっているだけだと思っていたのだが、
俺の意に反して1分も経たないうちに穏やかな寝息が聞こえてきた。
「ったく」
俺は彼女の寝顔を見つめた。
今日の葬式で泣いていたことが信じられないほど平和な顔をしていた。
「だって悲しいじゃない、か・・・」
俺は彼女にキスをして、そしてベッドに潜り込んだ。
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