# 白詰草
古い友人から電話があったのは、
何か前触れがあったわけでもなく、
それでいて僕にとってごく自然のことのように感じられた。
受話器を取ると、彼は名乗らず、ただこう呟いた。
「彼女が死んだ」
僕は煙草に火をつけ、煙を何回か吐き出した後、そうか、と言った。
名前を出さなくても彼の言う、彼女、が誰であるかは明らかなことだった。
「明日、葬式らしい」
深い深い穴の内から誘うかのように彼は呟く。
「お前は行くのか?」
「さぁな」
しばらくの沈黙の後、その間彼の息づかいだけが聞こえた、彼は続けた。
「まぁ、とにかくそういうことだ」
そして電話は切れた。
僕は煙草をもみ消すと冷蔵庫からビールを取り出し、
少し考えてから、牛乳を手に取った。
理由はないけれど、アルコールは相応しくない気がした。
やわらかい朝だった。
なにか悪い夢を見た感覚が残っていたが、その内容まで覚えていなかった。
ただ、とても喉が渇いていた。
僕はベットから抜け出すと、残りの牛乳をパックのまま飲み干した。
そして歯を磨き、ひげを剃り、黒めのスーツを選んだ。
今日は彼女の葬式。
喪服は持っていない。
考えてみれば僕が成人してから初めての葬式だ。
カレンダーを見ると、仏滅とあった。
鏡でネクタイを直して、ポケットから携帯電話を取り出した。
今日だけは誰からの電話も受けたくない。
携帯電話をテーブルに残し、そして斎場に向かった。
受付で記名を済ませてから会場に入った。
用意された椅子はすでにいっぱいだった。
ちょっと驚いたが、彼女の父親がどこかの会社の社長だったことを思い出し納得した。
僕は会場の後ろの方に立つことにした。
そこからは彼女の写真がよく見えた。
花が好きだった彼女は花に包まれて微笑んでいる。
彼女は特に向日葵が好きだと言っていた。
そしてクローバー・・・。
あまりに対極に感じた僕が理由を尋ねると、
「向日葵を見ると元気出るんだ。・・・クローバーは、だって儚げじゃない?」
と彼女は寂しそうに俯いた。
でも顔を上げた彼女は、
「それに小さくて可愛いでしょ?」
といつものように笑っていた。
そして彼女は続けた。
「ねぇ、クローバーの花言葉知ってる?」
だがいくら探しても、クローバーは無理にしたって、向日葵も見つからない。
自分が向日葵を持ってくれば良かったと、少しだけ後悔した。
15分ほどして式が始まる。
司会者の悲しみを装った口調に妙に腹が立った。
どこかに死者を盛大な祭りで送り出す国があると聞く。
できることなら僕が死んだときには、こんな悲しみに包まれた式ではなく、おもしろおかしく祝って欲しいものだ。
だがこんなことを考えるのも僕一人のようだ。
司会者の語りに誘われるように、
会場中のあちこちで鼻をすする音が聞こえ始める。
僕の隣にいた女もハンカチで涙を拭っていた。
僕は彼女よりも彼女の隣にいた男が気になった。
男は式の間中ずっと写真を見つめていた。
どこかで見た顔だと思ったのだが、思い出すことはできなかった。
そう言えば、クローバーの花言葉はなんだった?
外に出ると道の向かい側に電話をくれた友人を見付けた。
向こうも僕の姿に気付いて手を挙げた。
僕は手を振り返し、道を渡る。
「やっぱり来たんだな」
彼が口を開く。
「どうしてこんな所にいるんだ?」
僕が尋ねる。
「なんとなく、さ。俺は場違いな気がしてね」
彼が答える。
そして会話は途切れた。
彼はその場を取り繕うように煙草に火をつけた。
懐かしむべき再会なのに、話題がない。
死んだ彼女のことを口にしようか迷ったが、彼が作られた会話を嫌う性格だったことを思い出して止めた。
必要ならば自然に言葉が出てくるはずだ。
結局1時間ほど二人で会話もなく斎場を眺めることになった。
僕は不思議な感覚に包まれていた。
彼女の死はおろか、自分が今此処にいることでさえも現実ではないような、夢でも見ているようなそんな感覚だ。
さらに言うならば、第三者の視点で自分を見ているようで、この現実が他人事のように思えたのだ。
「泣けねぇな・・・」
彼が独り言のように呟いた。
そして腕時計を見ると、少し歩こう、と言った。
そのころになると斎場には誰もいなくなっていた。
彼は何を思ったのか、居酒屋に入って行った。
こんな時間から居酒屋が開いていることに驚いたが、時計を見るともう6時をちょっと過ぎていた。
愛想のいいおばさんが僕達を出迎えて、
「まだ準備中ですから、もうしばらくお待ちくださいね」
とにこやかに言った。
僕は、はい、と答えると、先に座敷に上がった彼の元へ向かった。
彼は難しい文献でも読むような顔つきでメニューを睨み付けていた。
「決まったか?」
僕はおばさんが持ってきてくれたお手拭きで手を拭きながら尋ねた。
「大体な」
彼は言葉とは裏腹に依然としてメニューを睨んでいる。
僕はすることもなかったので、店内を見渡した。
正面の壁には水着を着た若い女性が生ビールのジョッキを持って笑いかけていた。
右の壁にはメニューが書かれた札がいくつも下げられている。
左の壁には棚が設置されていて、そこには焼酎瓶が並んでいた。
そして壁のあいたところを埋め尽くすように写真が貼ってあった。
どれを見ても店の前で撮ったもののようだった。
どれを見ても数人の若い男女が写っていた。
この店には近くの大学生でもよく来るのだろう。
カウンターの中では初老の男が、これまた難しい顔つきで、火をおこしている。
頑固そうな、彫りの深い小柄な男だった。
一通り観察し終わる頃には、おばさんがやってきて注文を聞いた。
彼は生2つ、串の盛り合わせ、なんこつの唐揚げ、さしみ、と立て続けに吐き出し、
ちょっとおいてから、揚げだし豆腐、残りは後で、と締めくくった。
おばさんは苦笑しながら、わかりました、と席を離れた。
僕はふと思いついて、おばさんを呼び止め、生を追加した。
「生3つでよろしいのですか?」
おばさんは怪訝そうな顔で尋ねた。
「はい、生3つです」
彼の様子を窺うと、彼は壁に貼ってある写真を眺めているようだ。
これは彼も承知した証拠だ。
彼は反対するときには、何も言わずにじっと目を見つめるのだ。
おばさんはなおも合点がいかない様子で、
「一度にお持ちして良いですか?」
と言った。
僕は笑顔を作り答えた。
「はい、一度にお願いします」
おばさんは、わかりました、とだけ残しカウンターに入っていった。
すぐに生ビールは運ばれてきた。
ちゃんと3つあった。
僕はよく冷えたグラスを持ち上げると、
「この少々風変わりな同窓会を祝して乾杯」と言った。
彼も軽くグラスを掲げる。
3つ目のグラスだけは沈黙を守っていた。
僕は自分のグラスを沈黙のグラスに軽く合わせると、半分ほど飲み干した。
小気味良い音が響いた。
「考えてみれば」
と、一息ついた僕は言った。
「考えてみれば、僕達が一緒に飲むのは初めてじゃない?」
「高校を卒業してから会うのも初めてだからな・・・」
彼は面倒臭そうに答えた。
「そういやそうだ。あまり懐かしい気がしないんで忘れてた」
「アイツ、死んだんだな」
彼はそう言いながらグラスを見た。
僕もグラスに目をやりながら、そうだな、と答えた。
「俺達が再会するのは誰かが死んでからか・・・」
「じゃぁ、今度お前に会うのは、僕かお前が死んだときか?」
「そういうことだな」
いや、僕もお前も死んでから天国で3人会うんだ、とも思ったが口にはしなかった。
代わりに、それもいいな、とだけ言った。
アルバイトらしい若い女の子が唐揚げと刺身を持ってきた。
「お前、彼女に惚れてたろ?」
唐突に彼が言った。
それまでは仕事の話などを世間話のように話していたのだが、
その言葉は何の合図もなく、まさに唐突だった。
「なんだよ、いきなり。話には流れってもんがあるんだ」
「自然な流れだろ」
「どうかしてるよ、お前は」
「で、どうなんだ?」
僕は戸惑いながら適当な答えを探した。
僕が彼女を好きだったのは事実だ。
でも、お前だって、
「お前だって惚れてたんだろ?」
彼はただ、「やっぱりな」とだけ答えた。
そして、お前まだ書いてるのか?と続けた。
話の流れなんてあったもんじゃない。
「まあな」
と僕は答える。
「やっぱりな」
と彼が返す。
彼は刺身の皿を僕に差しだし、自分は揚げだし豆腐を平らげると、
「そろそろ行くぞ」
と言った。
「行くって、どこへ?」
彼との脈絡のないやりとりには昔から手を焼いていた。
「決まってるさ。思い出を掘りに、だ」
なんだ、そういうことか、と僕は思った。
帰り際、僕達は親父に呼び止められた。
親父は、写真を撮らせてくれ、と言った。
僕は、良いですよ、と答えた。
親父はそれを聞くとうれしそうに店の中からポラロイドカメラを持ってきた。
二人で店の前に立つ。
親父がカメラを構えると彼が、ちょっと待ってくれ、と言った。
彼はごそごそとポケットの中を探ると一枚の写真を取り出す。
そこには僕と彼女が写っていた。
そしてその隅には彼のぼやけた指が写っている。
当時僕が彼をからかったら、彼はこう答えた。
「俺も写りたかったんだ」
じゃぁ誰かに頼めばいいじゃないかと僕が言うと、
「俺が写したかったんだ」
と彼は言った。
彼はその写真を胸の辺りで構えると、いいよ、と言った。
すっかり暗くなった路地にカメラのフラッシュが輝いた。
親父は写真の出来も確かめずに、あげるよ、と僕に手渡した。
僕が受け取ると、店にもう貼る場所が無くてね、と人懐っこく笑った。
僕は不思議なものを見た気がした。
彼の車はこの店に来ることが最初から予定に入っていたかのように店の近所に止めてあった。
車に乗り、僕等の過ごした高校へと向かった。
もうすぐ9時になる頃だ。
高校は僕達の通っていた頃とはずいぶん様変わりしていた。
だが昔もあったばかでかい楠の木を見付けたときには少し安心した。
変わっていないものを見付けたと言うよりも、
その根本に僕等の思い出が埋まっているのだ。
彼は車の中からスコップと懐中電灯をとりだした。
つくづく用意周到な男だ。
僕と彼は交互に楠の木の根本を掘り返した。
楠の根元という以外、二人に大した記憶は残されていなかったので、
それを見付けるのに1時間ほどの時間が必要だった。
もう少しで楠の木を一周する頃、それは姿を現した。
かつてクッキーの入っていた空き缶。
蓋が見えたあと僕達は残りを手で掘り出した。
僕はすっかり姿が見えたそれを大事に取り上げ、蓋を開けた。
懐かしい香りがした。
中には封筒が3つ。
それぞれに3人の名前が記されている。
彼は中から自分の名前の書かれた封筒を取り出すと僕に差し出した。
僕は自分の封筒を彼に渡す。
彼は中身も確かめずにポケットにしまった。
僕は出来立ての小説を入れていた。
恋に敗れる男が主人公だ。
彼の封筒を開けてみればカセットテープが姿を現した。
「なんだこれ?」
僕が尋ねると彼は、聴けばわかる、と言った。
そして彼女の封筒が箱に残った。
彼は一度手を伸ばし、しばらく思案した後、その封筒を手に取った。
中には2枚の紙が入っていた。
彼は一人それを見て苦笑する。
「笑えねぇな」
そして1枚を僕に手渡した。
それは婚姻届だった。
ご丁寧に僕の名前と彼女の名前が書かれていて、印鑑まで押してある。
高校卒業と同時に結婚すると言っていた彼女がついでに作ったものだろう。
「まったくだ・・・」
彼女は何を考えてそれを埋めることにしたのだろう?
今となっては確かめる術はない。
僕はそれを大事に折りたたみ胸のポケットにしまった。
空になった箱を見て、彼は僕に手を差し出した。
「さっきの写真」
僕は頷いてから居酒屋の前で撮った写真を彼に渡した。
その写真では彼が何を持っているのかさえわからなかったが、
僕達にとって、確かに、彼女はそこにいた。
彼は写真を彼女の名前の書かれた封筒に入れると再び箱にしまった。
そして二人で元の場所に埋めた。
埋め終わると彼は言った。
「今度これを開くときは一人だ」
僕は答えた。
「あぁ。約束だ」
家に着いたのは12時を過ぎてからのことだった。
ポケットから清めの塩を取り出しはしたが、しばらく考えてから撒くのは止めた。
別に清めるものは何もない。
家に入り、早速カセットテープをラジカセに入れる。
聞こえてきたのは彼の声だった。
彼の声は聴いたこともないメロディを口ずさんでいる。
歌詞はない。
鼻歌でも歌うように、延々と、48分。
彼らしいテープだった。
制作意図が全く見えない,それは彼女の婚姻届も似たようなものだが。
「なんだよ。埋めるもの真剣に考えたのは僕だけか?」
と口に出してみた。
しかしその声はすぐに彼の声に飲み込まれた。
彼の声を聴きながら思い出したことがある。
彼女が恥ずかしそうに見せた結婚相手の写真だ。
それはまさしく斎場で見かけた男だった。
風の便りで離婚したと聞いた。
もう、今となってはどうでも良いことだ。
どうでも良いことだが・・・。
僕は彼のテープを聞きながらベッドに横になった。
「せめて夢の中だけでも、あんたを殴らせてくれ」
じきに睡魔が襲ってくる。
今夜は良い夢が見れそうだ。
彼の歌がカチャリという軽い音とともに途切れた。
僕は遠い意識の中でその音を聞いた。
やけに月が眩しい夜だった。
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