たゆたうなゆた

 此処は有機に明滅する電灯に照らされた『ボク』の影です

# 邯鄲の夢

小綺麗な喫茶店で、
小粋なジャズに耳を傾けながら、
二人で囲む小さな小さなテーブルは、
でもそのときは確かに僕等の世界だった。

世界に私達だけ、二人だけ・・・。

彼は腕時計を見てから私の顔を見た。
「ねぇ、僕を見て」
まるで恋人みたい、と私は思った。
さっき出会ったばかりなのに。
「さっきから見てるじゃない」
すると彼はコーヒーカップに目を落とし、
すっかり冷え切ったそれを愛おしむようにかき混ぜると顔を上げた。
「ちがう。僕の目を見つめるんだ」
私は頬張っていたショートケーキの苺を飲み込み、わかった、と彼の顔を見つめた。
彼は眼鏡を外し、目を軽く押さえると、
心の準備が出来たとでもいう素振りで私の目を見つめ返した。
途端に私の体は不思議な浮遊感に包まれた。
まどろみのなか突然に落下を感じることがあるけれど、
それに似ていて、でもぜんぜん違う感じ。
私は彼の目から視線を外せなくなった。
蛇に睨まれた蛙?
ちょっと違う。
私は心地よい浮遊感をいつまでも味わい続けたくて目が離せない。
私がそらそうと思ってもそらすことが出来るのか、わからない。
なぜなら私にはその意志がないから。
でもその心地よい時間は突然に終わった。
彼は視線を外し眼鏡をかけようとしている。
私は遊んでいた玩具を取り上げられた子供のような気分だった。
私は言葉を失い、ただ彼の動きを見ていた。
彼は顔を上げ、そんな私に気が付くと恥ずかしそうに笑った。
「これが僕の力だ」
そしてコーヒーを飲んだ。
「僕が見つめると誰も目をそらすことが出来なくなるんだ」
静かにコーヒーカップを置いた。
「何の役にも立たないけどね」
私はずっと彼の目を追いかけた。
でも彼は見つめてくれなかった。

彼女はため息を付いた。
「今度は私の番ね」
そして彼女はまたため息を付く。
僕はそんな彼女が素敵だと思う。
彼女のため息には、
ため息特有の悲しみや、諦めや、そういった風の感情は感じられず、
まるで彼女自身の存在を確かめているようで、
僕の目にはとても魅力的に映った。
「私、とても不安なの」
僕は彼女の鼻の辺りを見ながら次の言葉を待った。
彼女は僕のそんな様子を見て、またため息を一つ。
きっと僕の言葉を待っていたに違いない。
でもこのタイミングで口を出すことはすごく不自然に感じられた。
彼女は生クリームをフォークですくいながら言葉を継いだ。
「此処は現実なのかしら?」
僕はしばらく考えた後、ウェイトレスを呼んで冷めたコーヒーを新しくしてもらった。
ついでにお冷やも頼む。
そしてまだ湯気の出ているコーヒーを口に含んだ。
あまりの熱さにカップの中に戻しそうになったが、
ぐっと堪えて飲み込んでから、急いで水を口にいれた。
体中に沁み入るような水だった。
彼女は驚きの眼差しで僕を見ている。
僕はそんな彼女に笑いかけた。
「現実だよ。だってコーヒーがこんなにも熱いじゃないか」
ここと、と口を開いて、
この辺りがね、と胸をさすった。
彼女は小さく喉を震わせて笑うと、
「あなたって、おかしなひと」
僕は、まぁね、と応えた。

私にとって、出会ったばかりの男性を部屋に誘うのは初めてのこと。
彼が私に力を見せてくれた以上、私も応えなければいけない。
でもこれはただの理屈。
こんな理屈が通るほど私の心は単純じゃない。
自分でも行く先の分からない道の果てから私を呼ぶ声がする。
私は姿なき声に導かれるまま彼をお酒に誘った。
喫茶店を出る頃は私の力を披露するにはまだ早すぎたし、
お酒の力を借りることで成功しやすくなるから。
私がそう言うと彼は子供のように目を輝かせ、
「うん、いいよ」と言った。
そして、待つのは嫌いじゃない、と付け加えた。
カティーサークのグラスを傾けながら、彼が如何にして自分の力に気付いたか話してくれた。
それは彼が友達数人と焼き肉を食べていたときのこと。
数年前の出来事。
「隣にいた女の子とふと目があった。
ほんのちょっと彼女と見つめ合ったんだ。
友人の一人がそんな僕達を冷やかした。
するとね、向かいに座っていた女の子が私も見つめてって。
だから僕も軽い気持ちで彼女の目を見つめ返したんだ・・・」
「そして、あなたは気付いたわけね」
私はそれっきり口を閉じてしまった彼に相づちを送った。
「そう、最初は本当に軽い気持ちだったんだよ。
きっかけなんてそんなもんだよね。とても小さくて見落としがち」
彼は重い物を吐き出すように話した。
「最初に目があった人はどうしてあなたの力に気付かなかったのかしら?」
彼は宙を見上げた。
ふとするとカウンターの棚に並んだボトルのラベルを眺めているようにも見える。
「思うに、僕がこの力を発揮するには僕の意識が必要なんだ。
目があった程度では何ら影響を及ぼさないんだろう」
彼の目が悲しさを湛えているように見えた。
私の勘違いじゃないと思う。

「私と寝て」
僕は彼女の突然の言葉に驚いた。
でも彼女はすぐに僕の妄想を否定した。
「勘違いしないで。言葉通りの意味よ」
僕は彼女に誘われて彼女の部屋にいる。
店から出たあと、彼女はもうちょっと飲みたいと言い出し、
途中の酒屋で安い果実酒を買った。
僕達は静かにそれを飲んだ。
とても甘いお酒だ。
3/4がなくなる頃に彼女は突然そう言った。
「でも君と僕はさっき知り合ったばかりだろ?」
彼女は、構わない、と言い、
続けて、私の力を見たいんでしょ、と言った。
僕は躊躇いがちに頷いた。
「じゃぁ、決まりね」
と彼女は自分のグラスにつがれた果実酒を飲み干すと僕の手を取った。
僕は彼女に引かれるまま、立ち上がり、寝室に入り、ベッドに横になった。
彼女は目覚ましをセットし、部屋を出た。
僕は天井を見ながら彼女の帰りを待った。
部屋に戻ってきた彼女は少し幼く見えた。
化粧を落としてきたためだろう。
彼女は電気を消すと、僕の隣に横たわった。
「さぁ、寝ましょう」
彼女が囁く。
でも僕の神経はこんな状況で眠れるほど図太くできていない。
自分の心臓の音と、彼女の息づかいと、時計の針の音を聞きながら僕は堅くなっていた。
半時ほどして、「眠れないの?」と彼女が言った。
僕は返事の代わりに生唾を飲み込んだ。
「子守歌を歌ってあげる」
彼女はそう言って僕の手を握りしめる。
途端に僕の緊張はピークに達した。
でもそれも束の間、彼女の歌う子守歌を聴いているうちに緊張がほぐれていくのを感じた。
まどろみの中、これが君の力か?と尋ねた。
彼女が答えたような気もする。
僕には分からない。
僕はすでに気持ちのいい子守歌に包まれて眠りの縁に追いやられていたから。
とりあえず今は答えなんてどうでもいい。
目覚めれば分かることだ。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

気が付くと僕達は喫茶店にいた。
僕の前には冷えたコーヒーが一つ。
向かい側には彼女。
僕は混乱した。
此処は何処だ?
彼女は微笑んでいた。
「これが私の力よ」
彼女はケーキをほおばった。
「私は一緒に寝た人と夢を共有するの。驚くほどリアルな夢。
ほら、ケーキがこんなにもおいしいじゃない。
私にも此処が現実なのか夢なのか分からないわ」
そして静かにフォークを置いた。
「何の役にも立たないけどね」
彼女は悲しそうに笑った。
僕は試しにコーヒーを飲んだ。
気怠いぬるさと、独特の苦い香りが僕の口の中に広がった。

彼の提案で今日と同じコースを辿ることにした。
同じ頃の時刻に喫茶店を出て、
同じ道を通り、
同じ店に入り、
同じ注文をした。
夢がいつ覚めるかなんて、私にも分からない。
もしかしたら夢の中で明日を彼と過ごすことになるかも知れない。
でもそうなっても、夢の中で過ごす明日は現実ではなく、
所詮、幻なのだと私は知っていた。
私はこの力について彼に話した。
気付いたのは五年前。
恋人と初めて寝たとき。
「彼と寝て、夢を共有していると知ったとき、そこにあったのは喜びだった。
だって恋人と夢の中でまで一緒に過ごすことが出来るのよ,素敵なことじゃない?」
彼は手に余る物を弄ぶようにグラスを揺らしながら、そうだね、と答えた。
「でも君はとても悲しい目をしている。僕の思い過ごしかな?」
「喜びは恐怖に変わったわ」
彼の手の動きが止まった。
「ある日、彼が言ったの。
夢を何度繰り返すことが出来るのか試そうって。
おもしろそうだったから彼の提案に載ったわ。
私達は眠って、出会って、また眠って、また出会って、何度も何度も夢を繰り返した。
目覚めれば全てが終わるはずだったのに。
なのに目が覚めて二人で食事をして家を出る頃、私達はまた目が覚めたの。
また目が覚めて、また目が覚めて、また目が覚めて」
私はため息を付いた。
そのことがあってから、ため息は私の一部になっている。
「目覚めは突然にやってくる。
5分もしないうちに目が覚めることもあれば、
次の日になって目が覚めることもあるのよ。
それに、だって、何度目の夢かなんて数えてないし、
必ず次の夢が覚めるなんて保証もないんだから」
「そして君は夢と現実の境を失ったんだね」
彼はそう言うと窓の外を見た。
私も何となく彼の視線の先を追う。
そこは人でごった返していた。
皆が早足で歩いている。
皆が何かしら目的を持っているのだろう。
家路を急いでいるのか、恋人の待つ場所へ向かっているのか、それとも歩きたいだけなのか。
よく見ると立ち止まっている人が一人としていないことに気付く。
皆が何かに急き立てられているかのように歩いている。
必死に私達の視界から消えようとしているかのよう・・・。
非常にゆったりとした時が流れるこの店の中で、私は置き去りにされた気がした。
「君の恋人はどうしたんだい?」
「別れた。
彼も私も恐怖にとりつかれて、次第に彼は私に恐怖を見るようになって、逃げていったの。
しばらくして、彼が間違っていないことが分かった。
しょうがないことね」
彼はグラスを握りしめると、カティーサークを飲み干した。

慰めにはならないかも知れないけれど、と僕は彼女の瞳を見つめた。
彼女の茶色がかった瞳は、何故か、荒野の一本道を吹く風を連想させた。
「此処が夢であるにしろないにしろ、
それを確かめる術を持たない僕達には今の世界を現実として精一杯生きていくしかないんだ。
例え、それが一炊の夢だったとしてもね」
彼女は静かに目を伏せた。
ワインに映る自分の顔を確かめているようにも見える。
彼女は顔を上げると、鼻の上にしわを作って見せた。
「そうね、ありきたりだわ」
僕は苦笑した。
「じゃぁ、もし、今、夢を見ている僕達が君の作り出した夢の住人だとしても、約束しよう。
きっと、きっと僕達は現実世界で再会するんだ」
彼女は小さく喉をふるわせて笑うと、
「あなたって、やっぱりおかしなひと」
僕は、まぁね、と応えた。
「あなたが現実世界に存在するかどうかも分からないのに。
存在したとしても、私との約束なんてあなたはきっと覚えていないわ」
彼女は窓の外に目を移した。
僕は彼女の横顔を見つめた。
でも、と彼女がこぼす。
でも?と僕が聞き返す。
「再会の約束って好きよ」

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

それからのことは良く覚えていない。
目覚ましの音に僕は起こされた。
夢の続きを確かめたくて、必死に耳を塞いだけど無駄だった。
目覚めたら隣に彼女の姿はなかった。
僕は自分の手のひらを見つめた。
自分の手のはずなのに、細部を思い出すことが出来ない。
他人の手にすり替わっていても僕は気付かないだろう。
僕は何度か手を握ったり開いたりしたあと、ベッドから抜け出した。
隣の部屋から香ばしい匂いが漂っていた。

寝室を出ると、彼女はキッチンに立っていた。
「おはよう」
僕が声をかけると彼女は振り返った。
「朝御飯、食べてって」
僕は寝癖の付いた頭を掻いた。
「顔、洗いたいんだけど」
彼女は何も言わず一方向を指さした。
僕はゆっくりと洗面所に向かう。
鏡には何度も見たはずの顔が映っていた。
でもどこか違和感があった。
「僕ってこんな顔してたっけ?」
いろんな表情を作ってみてから、
ばかばかしくなった僕は顔を洗った。
タオルで顔を拭きながら、僕はふと気が付いた。
「なんだ、眼鏡がないんだ」
簡単な答えだ。
洗面所から戻ると、テーブルの上に目玉焼きと、ソーセージと、
千切りしたキャベツと、程良い焦げ目の付いた食パンが並んでいた。
彼女はテーブルの片方に座っている。
その向かい側には眼鏡が置かれていた。
僕は眼鏡の前の椅子に腰掛けた。
「グレープフルーツでいい?」
彼女は眩しい色をした液体が詰まっている瓶を僕に見せた。
僕は頷き、僕の前に置かれたグラスを彼女に差し出す。
心地よい音とともに、空のグラスは満たされていった。
「いい夢を見たかしら?」
彼女は瓶を傾けながら悪戯っぽく微笑んだ。
「あぁ。とてもいい夢を見たよ」
彼女は自分のグラスにもジュースをつぐと、僕の目を見つめた。
「ねぇ、もう一度あれ見せて」
僕はしばらく考えたあと、
手にした眼鏡をテーブルに置いた。
「いいよ。アンコールに応えるのは君が初めてだ」
そして目を押さえて、彼女の瞳を見つめ返す。
彼女の体が微かに震えるのを感じた。

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