# ビスケット
ポケットのなかにはビスケットがひとつ
もひとつたたくとビスケットがふたつ
僕は部屋の片隅で膝を抱えていた。
さっきまで狭かったはずの部屋がやけに広く感じた。
音が、ない。
すっかり更けてしまった夜の闇は、
僕の心の中にじわりじわりと染み込んでいった。
僕は知らず知らずのうちに口ずさんでいた。
彼がよく唄っていた歌。
ポケットのなかにはビスケットがふたつ
もひとつたたくとビスケットがみっつ
彼は、もういない。
彼の空気は想像以上に大きくて、
僕は彼のいなくなった空間を見て戸惑う。
部屋の中に彼の匂いだけが残っている。
ただ、それだけ。
彼は僕にそっと耳打ちする。
「そこはいいところだよ。それはそれはいいところだよ」
そこってどこだい?僕が尋ねると、
じきにわかる、と彼は笑った。
彼は公園でブランコに乗っている。
ブランコを大きく揺らしながら頂点で天に手を伸ばす。
「なにをしてるの?」
僕は思わず彼に尋ねた。
「もうすぐだよ、もうすぐ」
彼はよりいっそうブランコを大きく揺らした。
「月に手が届く・・・」
彼は頂点で両手を離す。
途端に彼の体は宙を舞い、転がり落ちる。
「無理なんだよ。無駄なんだよ・・・」
僕は揺れるブランコを見ながら煙草に火を付けた。
彼は僕の部屋の中で、
永い眠りから覚めるように、そっと息を吹き返した。
僕の顔を見つけると、ひさしぶり、と笑い、
ベッドに顔を埋めた。
「お日さまの匂いがする」
「今日、干してたからな」
「ありがとう」
「そんなわけないだろ」
「うそ。だって君は僕が来ることを知っていただろ?」
僕は彼の言葉を否定できない。
彼の顔はとても懐かしい・・・。
彼は唄った。
ポケットのなかにはビスケットがひとつ
もひとつたたくとビスケットがふたつ
ポケットのなかにはビスケットがふたつ
もひとつたたくとビスケットがみっつ
ポケットのなかにはビスケットがみっつ
もひとつたたくとビスケットがよっつ
いつしかビスケットは僕のポケットから溢れ出した。
ビスケットは積み上げられ、塔になる。
僕は膝を抱えたまま塔を見上げた。
高い、高い、塔だった。
塔のてっぺんに青い布がはためいていた。
見覚えのある、あお。
あお、青、蒼、藍、碧。
根源のアオ。
僕は目を閉じた。
耳を澄ました。
声が、笑い声が聞こえる。
彼が視える。
彼が笑っている。
「月影の窓を開けなよ。僕はそこで待ってるから」
僕は立ち上がった。
部屋の白い壁、月が映し出す窓に手をかけた。
僕の動きに合わせ、窓が微かに揺れる。
僕は手にそっと力を込めた。
月影の窓は音もなく開いた。
部屋の片隅に僕がいる。
膝を抱えて泣いている僕がいる。
僕は僕に近づいた。
僕は僕にそっと耳打ちする。
「ここはいいところだよ。それはそれはいいところだよ」
僕は泣きはらした顔を上げた。
そこには優しく微笑む僕がいた。
そこってどこだい?僕が尋ねると、
じきにわかる、と僕は笑った。
甘いビスケットの香りが僕の鼻をくすぐった。
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